ほんだわけのみこと/主祭神
別称:應神天皇(第15代),大鞆和気命(おおともわけのみこと),胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと),品陀和氣命(ほむだわけのみこと)など
国家と領域の鎮護-武運の神様
清和源氏をはじめ全国の武家から武運の神「弓矢八幡」として崇敬を集めてきた誉田別命。
欽明天皇32年(571年)に宇佐に御神威をあらわされ,我国の歴史にたびたび偉大な御神威をあらわしています。数かずの御神威から,誉田別命をお祀りする宇佐神宮や石清水八幡宮は御皇室からの崇敬も厚く,神宮(伊勢)に次ぐ「第二の宗廟」とされています。
平安時代中期以降には,武家の守護神として清和源氏などによって全国各地に勧請されました。現在,全国に大小あわせて約11万社あるといわれる神社のなかでも,八幡宮・八幡神社は約4万社以上が存在します。武神であると同時に,強大な御神威で地域を守護する神様として祀られてきました。
健やかな誕生成長-安産・子育・子宝の神様
仲哀天皇と神功皇后の御子として御生誕された誉田別命。日本武尊の御皇孫にあたります。
三韓征伐ではすでに神功皇后の胎内に宿られていましたが,鎮懐石の効用もあり帰途の筑紫にて健やかに御生誕されました。鞆(とも/ほむた,弓を射る古代の武具)を携えて生まれたとされ,生まれながらに弓矢神・武神であるといわれます。または,鞆のような贅肉がつくほどの健児として生まれたともいわれます。鞆は弓を射た際に「弓の音」を発し,鳴弦の儀の「弦音」と同様に魔障や邪気を祓います。鞆と所縁のある誉田別命は,魔障や邪気を寄せ付けずにすくすくと成長されました。
御自身も多くの御子に恵まれ,御子の1人は第16代天皇の仁徳天皇として即位されました。ほかの御子たちも有力氏族の始祖になるなど,活躍の一端が古事記や日本書紀に著されています。
国造りの中心 民と共に-開拓・発展・繁栄の神様
日本への渡来を願う弓月君(秦氏の祖先)に対し,それを妨害する新羅の排除のために精鋭を派遣した誉田別命。弓月君のほかにも,誉田別命の御代には多くの渡来人が帰化しました。彼らは様ざまな技術や文化を伝え,我国の成熟に寄与しました。
さらに,利水・治水のための貯水池・調整池を整備するなど,民の発展と安定のためにも御尽力されました。民の生活とその安寧・人びとの共存共栄を最優先にされる御心は,歴々の御皇室に受け継がれています。
崩御後は,惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ,誉田御廟山古墳)に埋葬されたとされています。この陵は全長約240mで,仁徳天皇陵に次ぐ国内第2位の巨大前方後円墳です。陵墓の規模や荘厳さにも,徳の深大さがあらわれています。