たけはやすさのおのみこと/相殿神
別称:神須佐能袁命(かむすさのおのみこと),八坂大神(やさかのおおかみ),牛頭天王(ごずてんのう),祗園神(ぎおんのかみ),武塔神(むとうのかみ)など
疫病や災厄をつかさどる-除疫・防災の神様
かつて人びとは,疫病は怨霊・疫病神・荒ぶる神などがもたらすものと考えていました。疫病とは天然痘・コレラ・結核・インフルエンザなど,大流行しては多くの死者を出した伝染病のことです。
スサノオと疫病の関連性は『備後国風土記(逸文)』の「蘇民将来」の逸話や『祇園牛頭天王御縁起』に記されています。
…旅の途中の武塔神(正体はスサノオ)が,富裕な巨旦将来と貧乏な蘇民将来という兄弟に宿を求めた。巨旦はこれを拒み,蘇民は歓待した。その後,年を経てから武塔神が対応への報答にやってきた。蘇民とその子孫に”茅の輪を腰に着けなさい”と伝え,茅の輪を着けていない巨旦とその子孫を一晩で根絶やしにした。武塔神は正体をスサノオだと明かし,これから疫病が流行ることがあっても,蘇民将来の子孫として茅の輪を身に着けていれば避けられると伝えた…
というものです。文脈から,巨旦の一族は疫病で全滅したのでしょう。
これらのことからスサノオは,疾病防除や災厄防除の神様として信仰されています。
また,スサノオは『古事記』や『日本書紀』などの記述にあるように,とくに荒々しい一面を持っています。荒ぶる神としてスサノオ自身が疫病や天災をつかさどっていて,丁重にお祀りしないと悪い病気や災害を生じさせるという信仰が存在しました。
行疫神(病気を流行らせる神)を鎮めるための御霊信仰や祗園信仰とともに,牛頭天王と習合したスサノオは全国各地で信仰されるようになりました。きちんとお祀りすることで荒ぶる神を慰め和ませ,地域に疫病や天災が降りかからないようにしようと,祗園祭や天王祭が現在も各地で行われます。
荒々しくても内は優しい-豊かな御神徳の神様
スサノオは『古事記』や『日本書紀』に序盤からたびたび要所に登場されます。荒々しい神様から父性あふれる荘重な神様へと,次第に円熟されていく様子が記されています。
以下のような御事績から,海原・嵐風・家族・更生・夫婦・武勇・治水・稲作・農業・鉱業・鋼業・製刀・草木・林業・父性などにまつわる御神徳もある神様といえます。
母に会いたいと号泣
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が禊をした際に,スサノオが生まれました。同時に生まれた天照大御神(あまてらすおおみかみ)と月読命(つくよみのみこと)とともに三貴神といわれます。それぞれの神様はイザナギから統治する領域を与えられ,スサノオは夜之食国(よるのおすくに)あるいは滄海原(あおうなばら)を治めるようにいわれました。しかし,スサノオはそれを断り母神の伊耶那美命(いざなみのみこと)がいる根之堅洲国(ねのかたすくに)に行きたいと,髭が長く伸びるまで号泣し続けました。イザナギの怒りをかったスサノオは追放され,根之堅洲国へ出発することになりました。
勢いまかせに罪を犯す
根之堅洲国へ出発する前に,別れのあいさつをしようと高天原の姉神アマテラスのもとへ赴きました。しかし,アマテラスからはスサノオが攻めてきたものと疑われます。疑いを解くために誓約(うけい)をし,潔白が証明されたとしてスサノオは勢いで数々の罪を犯してしまいます。畔を壊し稲作を妨害したり,生きたまま皮を剥いだ馬を社殿に投げ込んだり,大便を社殿に撒き散らしたりします。混乱を招いたスサノオは高天原も追放され,人間の住む葦原中国(あしはらのなかつくに)へと放逐されました。
ヤマタノオロチ退治と家族
葦原中国に降り立ったスサノオは,ヤマタノオロチの生贄にされそうになっている奇稲田姫命(くしいなだひめ)と出会い婚約します。策を練ってヤマタノオロチを退治し,根之堅洲国の須賀(島根県安来市あたり)に奇稲田姫命とともに鎮まります。そこで御子神をもうけ,出雲の神々の祖神となられました。
ヤマタノオロチはその描写から,土石流を表しているともいわれます。ヤマタノオロチを退治し奇稲田姫命を娶ったことは,治水が成功し稲作が栄えたことを示していると考えられます。また,ヤマタノオロチを退治した際に草薙剣(天叢雲剣)を手に入れますが,これは当時の最先端技術である製鋼を手に入れたことを示しているようです。製鋼では大量の薪炭が必要になり,樹木の過伐採によって土石流が発生していたのかもしれません。『日本書紀』では,ヤマタノオロチ退治後のスサノオは植林を広く奨め,樹種ごとの用途を定めたとされています。
婿への試練と激励
須賀に鎮まるスサノオのもとに,あるとき大巳貴命(おおなむちのみこと)がやってきます。オオナムチは,スサノオの娘である須世理毘売命(すせりひめのみこと)と互いに一目惚れし結婚します。
娘からオオナムチを紹介されたスサノオは,オオナムチに数々の試練を与えます。蛇やムカデや蜂がいる部屋に泊まらせたり,野原に放った鏑矢を取りに行かせ火をつけたり,髪にたかるムカデを取らせたり,立て続けの難題でオオナムチの対応を見届けます。
須世理毘売命たちの助言によって試練を乗り越える様子に,次第に「かわいい奴だ」と気を許し始めます。オオナムチと須世理毘売命は,スサノオが寝ている隙にスサノオの太刀と弓矢を持って宮から出ていきました。
スサノオは追いかけましたが,途中で止まり「持ち出した太刀と弓矢で,お前に従わない神々を追い払え。これからは大国主(おおくにぬし)と名乗れ。娘を正妻にして,立派な宮殿に住め。この野郎!」と激励しました。「大国主」とは,字のごとく「偉大な国の主」です。オオナムチはこの激励のとおり大国主として,従わない勢力を平定し葦原中国をまとめあげる偉業を成し遂げました。
水海道祗園祭の神様
水海道祗園祭は,建速須佐之男命の御神威によって疫病や災厄を封鎮し,地域安寧や五穀豊穣を願う祭礼です。建速須佐之男命が本社神輿にお遷りになり,水海道各所を渡御します。各町会や各神輿同好会の御神輿にも,建速須佐之男命の御分霊をお遷しします。
当神社の建速須佐之男命は,かつて森下町にあった八坂社(牛頭天王社)にお祀りされていました。大正4年(1915年)の神社合祀によって,当神社の相殿神(主祭神とともに本殿にお祀りされる神様)としてお祀りされ現在に至ります。
水海道ではふるくから祗園祭の時期に神輿が担がれていました。延宝年間(江戸時代初期,1673-1681年)には,真言宗の福聚院(現在の森下観音)境内にあった八坂社(牛頭天王社)から御神輿が出て,森下町を中心に渡御していたようです。安政4年(1857年)になると水海道の富商らによって現在の本社神輿が造営され,発展していた水海道街部が祗園祭の中心となっていきました。
この本社神輿は現役で,普段は当神社境内の神輿庫に納められています。八坂社(牛頭天王社)の経緯,当神社の立地などから,先人たちが御神輿を安置するのに最適地と判断したものと考えられます。
また,神輿庫のあたりはかつて客死などの無縁仏を葬ったところといわれています。現に,神輿庫の傍らには石塔の遺構が残り,薬師如来と虚空蔵菩薩の御堂が神輿庫側を向いて建立されています。これらに加えて,建速須佐之男命の強力な御神威が染みた御神輿を押さえとし,無縁仏の霊を鎮めているものと考えられます。