祗園祭(水海道祗園祭)

ぎおんさい(みつかいどうぎおんさい)

関連リンク(平成29年)

疫病と災厄を防除 平安と豊穣を願う

祗園祭は,当神社の相殿神である建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと/スサノオノミコト)の祭礼です。 スサノオノミコトの御神徳のひとつである「防疫・除災」を仰ぎ,スサノオノミコトに御神輿にお遷りいただいて水海道の各所を巡ります。スサノオノミコトの御巡幸によって地域にその御力をいっそう授かり,疫病や災厄のもとを伏せ鎮めます。疫病や災害が多くなる夏に,御神威によってそれらを防除しようという信仰に基づきます。

祭が賑わう「突き合わせ」(平成30年,当番町:本町)。

祭礼の起源は京都の八坂神社(ふるくは祗園社)にあります。もともとは疫神信仰といわれ,疫病や災厄をつかさどる疫神をしっかりと祀って鎮めることで,平安や豊穣につなげようというものでした。やがて仏教の影響を受けて,祗園の守護神とされる牛頭天王が祀られるようになりました。また,神仏習合によって牛頭天王とスサノオノミコトは同一とされ,祗園祭はスサノオノミコトの御神威によって疫病や災厄を防除する祗園信仰の祭礼となりました。

このような祗園信仰などによって,スサノオノミコトは全国で広く祀られるようになりました。スサノオノミコトを御祭神とする全国の八坂神社・氷川神社・八雲神社・須佐神社・須賀神社などで,現在も祗園祭や天王祭が執り行われています。

当神社は「八幡神社」ですが,大正4年(1915年)に水海道森下町の八坂社(ふるくは牛頭天王社)が合祀され,建速須佐之男命が御祭神としてお祀りされ祗園祭が執り行われています。

伝統と賑わい

水海道の祗園祭は,県下有数の伝統と賑わいを誇ります。とくに祭礼の初日と中日の夜は,街内に多数の御神輿や山車などが集合・巡行し,あふれんばかりの人出です。信仰と伝統を尊重し,なおかつ時代の要請も加味してきたからこそ,現在も祗園祭が脈々と盛大に続いているといえます。

雌雄の獅子が巡行することも特徴の一つ。翌年の本社神輿当番町が担う。

水海道ではふるくから祗園祭の時期に御神輿が担がれていました。延宝年間(江戸時代初期,1673-1681年)には,真言宗の福聚院(現在の森下観音)境内にあった八坂社(牛頭天王社)から御神輿が出て,森下町を中心に広く渡御していたようです。

故事にならって猿田彦大神が前導する(平成27年,当番町:橋本町)。

安政4年(1857年)になると水海道の富商らによって現在の本社神輿が造営されました。
嘉永年間から安政年間(1848年-1860年)は,黒船来航,内裏炎上,安政の大地震,コレラ大流行など,異常事態が多発していた時代です。これらの事態を終息させるために,スサノオノミコトの御神威をますます発揚しようと本社神輿が造営されたと考えられます。
この本社神輿は現役で,普段は当神社境内の神輿庫に納められています。八坂社(牛頭天王社)の経緯,当神社の立地などから,先人たちが御神輿を安置するのに最適地と判断したものと考えられます。

四神が登場することも特徴の一つ。

現在の水海道の祗園祭には,伝統と歴史に根ざした次のような特徴があります。

  • 2つの神社の氏子区域(八幡神社と天神社)にわたって執り行われている
  • 「当番町」という慣行があり,7つの町会の間で1年毎に当番が順々にめぐる
  • 猿田彦大神が本社神輿を前導する
  • 雄獅子・雌獅子が巡行する
  • 方位守護の四神圏が安置される
  • 御神輿の数が多い(最大22基),山車の数が多い(最大11基)
  • 昼の渡御と夜の渡御があり,夜に「突き合わせ」が行われる
水害を乗り越えて「宮出し」(平成28年,当番町:渕頭町)。

お願い

  • 渡御の列を横切らないようご協力ください
  • 町全体が「祭場」ですから,清浄美化にご協力ください
  • 御神輿より高い位置から見下ろしたり,撮影したりしないようご協力ください
  • 各町会や各神輿同好会のことは,それぞれにお問い合わせください
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