大変な目にあったら,懸命にがんばる。奮闘努力を子孫に伝え,教訓として活かして欲しい…。
平成27年9月に大変な水害にあった常総ですが,過去にも水害はありました。
御先祖様は我々「子孫」に伝えたかった…,我々はそれに反応できているか…。
今回「水災記念碑」(発災:昭和13年,建立:昭和15年)について紹介します。
場所は水神宮(新八間堀川/明橋,地図)です。
水災記念碑【オモテの意訳】
昭和13年(1938年)6月下旬,豪雨が連続して河川が非常に増水し,小貝川上流で堤防が決壊した。
これによって7月1日に濁流に深く浸かった。まず橋本町が被災し,次に八間堀川も氾濫し本町元町栄町あたりの台地以外は道も全て浸水した。さらに宝町では浸水深が約90cmに達した。道路の行き来はもっぱらフネやイカダとなった。古老が言うには約160年ぶりのことだそうだ。
災中は被災住民は学校やお寺などに避難した。救助された者は実に3万6800人,白米は約16tがすっかり無くなり,流失した商品・作物・住宅・家財の被害は約23億8000万円に達した。幸いにも死傷者は皆無であった。
災後ただちに災害復興委員会が設立され,様々なことをどのようにやりくりするか計画された。とりわけて,災害からの救済のために八間堀川の堤防を改修強化することが要請された。
土木事業の申請は所轄庁の認可を受け,翌年の昭和14年1月に起工し,同年10月に工事が完了した。実に約270日の歳月と約9000万円強(県からの補助約6600万円/町の負担2300万円)を費やした。
新しい堤防は高さが5m,上部の幅が2m,全長が2595mである。これで水害を防ぎ町民が安心して住めるようになるだろうから,大きな功績のあるものだ。工事の監督は鈴木巖氏が務め,さらに町会議員も含めてきちんと見守ったので完璧であった。
ここに出来事のあらましを記して,子孫に伝える。
昭和15年7月
※消費者物価変動は類推から約3500倍とした。企業物価指数が基準だと約500倍である。
水災記念碑【オモテ】
水災記念碑 風見章題
昭和十三年六月下旬豪雨連臻河川増水甚而小貝川上流堤塘遂決潰矣
以是七月一日濁流淊々而襲来橋本町先被其災次八間堀川亦范濫除臺
町新町横町之台地浸水全衢在寶町尚且深實達三尺矣往来街路專依舟
筏故老曰百六十年来曾有也此間罹災町民避難于學校寺院等享救助者
實三万六千八百人竭白米百六石商品作物家什之流失達六十八万円幸
無死傷焉於是災後直設災害復興委員會而謀諸般之經營就中欲為災害
救済起八間堀川堤防之改築強化土木事業申請于上司得其認可矣乃翌
十四年一月起工同年十月竣工矣實二十七旬之歳月與工費二万五千三
百三十三円強(*割注)也新堤者高五米馬踏二米延長二
千五百九十五米也如此而免於水禍以得町民之安居則其功大矣工事監
督者鈴木巖氏而町會議員諸氏亦交當監視之任期完璧矣茲記梗概而傳
後昆云爾
設計者 茨城縣技師 小泉虎雄 毛利齋二 清水潔
町會議員 武藤久兵衞 羽田包次 荒井庄太郎 北川亀太郎
中山藤吉 瀧川德三郎 鈴木巖 志富靱負
森田善治 中島弘三 梅澤貞吉 北村連之助
中村貢 小倉邦一郎 中野喜太郎 大串郁三郎
昭和十五年七月 水海道町長 正五位勲五等 塚田節撰
同 助役 正七位勲六等 柴沼三郎書
(* 縣費補助一万八千八百十二円/町負担六千五百二十一円)
水災記念碑【ウラ】
※裏面には線があるが,これは石を切り出した際の痕跡か,あるいは浸水深を示すのか不明。浸水深を示すとしても,石碑は移設された経緯があり浸水深を正しく示さない。